2016年5月17日火曜日

旧約聖書の編纂者はなぜ異教の賛歌をパクったのだろうか?

世界の宗教は自然信仰(アニミズム)に始まり、精霊信仰になり多神教となり一神教となった。

ゾロアスター教は「光」を崇拝した。それは創造主が始めに創造したものだった。光は闇を払い辺りのものを照らすし、はっきりものを見るようにする。
アフラマズダの息子、神々の中でも最も貴いものは火であり太陽であったので、神聖なものとされた。インド神話でもアーディティア(限リ無きもの)神群とよばれ他の神々ダイティア(限りあるもの)とは一線を画している。

火は浄化の炎であり、神への捧げものを焼き尽くし、その香りを煙と共に天に運んでくれるものとして崇拝された。

聖書でもアベルとカインの捧げものは火で焼いて神に捧げられたのである。
また戦争で分捕った宝は必ず火か水に通して清めてから、神殿の倉庫に入れた。

しかしこれらの万物に、神聖で清らかな性質を付与したのは誰であろうか。

炎や水、その他の万物に宿る力は、神の性質を現したものだから、我々は火の神聖さに神の神聖さを重ねて見ているに過ぎないと思う。

だから、炎や水を神とするのは大誤解なのだ。

それら人間に恵みを与えてくれる万物に捧げられる賛歌は、本来はそれを創られた造物主に向けられるべきものである。

太陽も、星も、風も、植物も、大地も・・・無から作られた創造主に帰するのである。

ゾロアスターは光を神格化し、祈りを捧げたがそれらの賛歌はすべて創造主に捧げるべきと考えた聖書編纂者によって、旧約聖書では創造主への賛歌になっている。


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