2016年5月15日日曜日

古代ペルシャなど


 ハカーマニシュ朝とその時代 
11月 24, 2012 in 
地域-西アジア, 知識-歴史 by admin 

紀元前550年、小王国アンシャンの第7代の王キュロス2世がメディア王国を滅ぼし、アケメネス朝を建国する。 
紀元前547年、キュロス2世がリュディア王国を滅ぼす。 
紀元前539年、キュロス2世が新バビロニア王国を滅ぼす。 
紀元前525年、カンビュセス2世がエジプトを併合しオリエントを統一する。 
紀元前521年、ダレイオス1世がパンジャーブ・シンドを征服する。 
紀元前520年、ダレイオス1世がペルセポリスの建設に着手。 
紀元前518年、ダレイオス1世がガンダーラを征服する。 

紀元前500年頃、ギリシアとの間で戦争を起こす。          ペルシア戦争(紀元前500年-紀元前449年) 
紀元前494年、イオニアの反乱を鎮圧。 
紀元前490年、ペルシア軍のギリシア遠征、マラトンの戦いでギリシアに敗れる。 
紀元前480年、クセルクセス1世によるギリシア侵攻          (テルモピュライの戦い、サラミスの海戦)。 
紀元前479年、プラタイアの戦いでギリシア連合軍に敗れ、クセルクセス1世によるギリシア侵攻は失敗。 
紀元前333年、ダレイオス3世、イッソスの戦いでアレクサンドロス3世に敗れる。 
紀元前333年、ダレイオス3世、ガウガメラの戦いでアレクサンドロス3世に敗れる。 
紀元前330年、ダレイオス3世、逃走中にバクトリアサトラップのベッソスに殺害され、アケメネス朝は滅亡。 
紀元前6世紀にファールス地方から当時の文明世界の大部を支配するハカーマニシュ朝(アケメネス朝、アカイメネス朝)が成立すると、この王朝の王であるダーラヤワウ1世(ダレイオス1世)は諸王の王を名乗った。
これはアッシリア王の称号の1つに由来し、ある特定の地域の王ではなく、広大な領域に住む幾多の異民族を支配する王、世界帝国の支配者であることを意識した称号であった。
以後グレコ・マケドニア系のセレウコス朝、セレウコス朝をイランから放逐したパルティア人のアルシャク朝(アルサケス朝)、そしてファールス地方から興ったサーサーン朝に至るまで、諸王の王を名乗る王朝がイラン世界で興亡を繰り返した。

ハカーマニシュ朝とその時代、メディアに従っていたアンシャン(ファールス)の王クル2世(キュロス2世)は、反乱を起こしてメディア王イシュトゥメグ(アスティアゲス)を破ってイラン高原の支配権を握り、前559年頃にハカーマニシュ朝を成立させた。

クル2世は更にリュディア、次いでバビロニアを征服した。
次のカンブージャ2世(カンビュセス2世)の時代にはエジプトからインダス川流域に至る大帝国が形成された。

アッシリア帝国やバビロニアの統治機構を倣ったハカーマニシュ朝では、広大な領域を統治するために高度な官僚制が整えられ、領土内に20以上の軍管区(サトラペイア)を設定した。

そしてそれぞれに総督(一般にギリシア語に由来するサトラップという名で知られている)が任じられたが、彼らを監視するために王の目、王の耳と呼ばれた監察官が活動した。
また首都としてペルセポリスと呼ばれる都市が築かれたが、実質的な政治の中心はエラムの中心都市スサであった。
また、王は一年の間にスサ、バビロン、エクバタナを移動したと伝えられる。
ハカーマニシュ朝はしばしばペルシア帝国と呼ばれるが、単純に「ペルシア人の国家」というわけではない。
ペルシア人は支配者として振舞ったが各地で征服された現地人の人口は圧倒的であり、またその中には長い歴史・伝統を持つ集団が数多く存在した。
メディア人はしばしばペルシア人と併置して呼ばれ、帝国の中枢部にいて支配者の栄誉を共有していた。
行政組織においては、豊かな経験を持つエラム人が多用されていた。
行政文書や事務書類にエラム語が多用されていることがこれを端的に示す。
バビロニアでは征服以前の官僚達が引き続いて現地の政治行政を担当していたし、リュディアやエジプトでもその統治は現地人の有力者に強く依存していた。
このようにハカーマニシュ朝は長い伝統を持つ征服地の政治組織を温存し、その上に君臨した。
またハカーマニシュ朝時代にはゾロアスター教の教義体系、組織もかなりの程度整えられたと考えられる。
ザラスシュトラ(ゾロアスター)によって開かれたとされるこの宗教はこの時代以降、長い時間をかけてイラン世界の思想的な柱となっていった。

ハカーマニシュ朝は紀元前5世紀初頭のギリシアへの遠征(ペルシア戦争)においては一敗地にまみれ、対外的な拡大は一つの限界に達した。紀元前5世紀末頃には、相次ぐ分割相続と税負担増のために軍務を担ったペルシア人の封土所有者が没落し、帝国を支える軍の中心は傭兵へと移っていった。宮廷では慢性的な王位継承の争いが起きており、地方ではペルシア人の有力者やバビロニアやエジプト、リュディアなどの現地勢力による反乱が頻発した。歴代の王達はしかし、これらの反乱の鎮圧の脅威を抑えてその覇権を維持し続けた。この時代は王朝衰退の時代と言われているが、近年では再評価する動きもある。

ハカーマニシュ朝の支配は最終的には外敵の侵入に対する敗北によって失われた。
ダーラヤワウ3世(ダレイオス3世)の治世であった紀元前334年にマケドニア王国のアレクサンドロス大王がハカーマニシュ朝に対する遠征を開始した。
ダーラヤワウ3世はこれを迎え撃ったが、イッソスの戦い、次いでガウガメラの戦いで大敗し最後は部下の裏切りによって殺された(前330年)。
こうしてハカーマニシュ朝は短期間のうちに瓦解し、アレクサンドロスがハカーマニシュ朝の領域と統治機構を継承した。
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※資料として保存したいので、元記事サイト消滅のためキャッシュからコピペしました。

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