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「犯行」を定義する構成因子の1つが「犯意」だと思うのですが・・・
「犯罪だと知らずに犯した」場合は何と言うのでしょうか。
それは「犯罪」であることには変わらないのですが、分からないのに犯したことについては裁判官も情状酌量の余地を認め、即実刑判決とはならないようです。
罪ではあるけど、罰は免除されると言うことですね。
さてではわが国において、常識も感覚も違う外国人が犯した罪の場合はどうなるのでしょうか。
常識的な日本人であれば、法律の知識が全く無い子供でも、盗みや殺人(傷害)、人を騙すことはいけない位のことは分かっていますよね。
しかし、この常識が全く通用しない者が、最近非常に多くなっているのです。(ヤフーの知恵袋あたりをご覧になると分かります。)
彼らの信条は、ちょうど旧約聖書の十戒や律法をひっくり返したものを想像していただければいいと思います。
神を敬ってはならない やたらと神をだす 人は殺していい 父母は敬わなくていい 盗んでいい 姦淫していい 嘘をついて(偽証して)いい 隣人をむさぼっていい 偶像崇拝(神を詐称)していい
まあ、どこの偽装宗教カルトか底辺侵略者の左翼無神論国家かという・・・w
こうした、社会の破壊分子ってどうして社会に適応できないかと言うと、これらの「逆十戒」を自らに許してしまった結果、そうなってしまったんですよね。
非・人間的であるということの根拠。
例えば、
「二人の人がいて、でも食べ物はひとつしかない」場合、
・殺しあって生き残った方が食べ物をゲットして生きる。(奪い合う)
・食べ物を相手に譲って自分は他の方策を見つける。(もしくは分け合う)
のどちらかを選択するのではないでしょうか。
前者は、生物界ではあまねく見られる現象です。
しかし知恵のある人間は、後者を選び、みんながお互いに発展していく道を選択するのではないでしょうか。
「自分だけ幸せになる」のはつまらないので、もっと貪欲に、「皆が幸せになる」ことを目指す、これが「万物の霊長」の所以ではないかと思います。
前者のやり方だけをやっているのは見た目はホモサピエンスでも、禽獣と同じ存在です。
こうした、<禽獣並みの幸せでは満足できない一種の貪欲性>こそ、人を人たらしめること、ひとが「人間性」を主張できる情動的な根拠、ではないかと思います。
自分が愛するものを失うと幸せじゃなくなるから、自分の身を犠牲にしても、他の存在のために生きる。
自分しか愛さない者でも、自分を愛してくれる存在を失うのは悲しいです。
そうやって、誰もが他の存在を愛することを学んでいくのだと思います。
統一教会では、「自己中心的な愛」や「自己愛」を批判しますが、それでも愛の無い人よりはましです。
とりあえず「人間性」を定義づける情動的な部分が壊れている人(サイコパスとか)でも、十戒や律法を守っていれば、人間らしい生活を送れます。
十戒や律法の根源は神と人への愛ですから、守っているうちにそうしたもっと高度な情動が啓発されてくるでしょう。
しかしこれを積極的に破壊しようとする存在がいるんですよね。
そうした存在も、好きでそうなったわけではないと思うのですが、彼らの特徴としては「心情が分からない」「愛が分からない」「善と悪が分からない」という前提で、十戒や律法を破りまくる「反社会的存在」。
非常に迷惑な存在ですが、彼らは子供のときから破壊活動に勤しんでいるので、ある意味目立ちます。
必死に社会に溶け込んで、普通人のフリをしていても、根本的に「心情が分からない」「愛が分からない」「善と悪が分からない」ので、その非・人間性を露呈してしまうんですよね。
現在日本の社会は、「神を敬ってはならない やたらと神をだす 人は殺していい 父母は敬わなくていい 盗んでいい 姦淫していい 嘘をついて(偽証して)いい 隣人をむさぼっていい 偶像崇拝(神を詐称)していい」社会ではないので、こうした生き方をあくまで続けたかったら、そうした世界を探しに行くか、自分で建国するしかないと思います。

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