2014年1月7日火曜日

ハンガリーさんもものすごい勢いでゴグとマゴグから撤退



ハンガリー共和国  自称マジャール Magyar 。モンゴル人を指すペルシア語のムガール「強い人」が転訛したといわれる。ハンガリーの語源については、諸説あるが、この地に同化したフン族の名に由来する説が有力。「フン」は「人」 Hungarvaia の略といわれている。

http://homepage2.nifty.com/osiete/kokumei-hagyo.htm

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フン族(フンぞく、Hun)は、ヴォルガ川東方から現れた遊牧民の集団で、370年頃にヨーロッパへ移住して大帝国を築いた。彼らは恐らく300年程前に中国の北隣に居住していた匈奴の子孫であり[1]テュルク系民族ユーラシア大陸にまたがる最初の拡張であろう[2][3]。フン族の起源と言語en)は数世紀にわたり議論の的になっている。現在の学説では彼らの指導者たちの名はテュルク諸語で表されているとされている[4][5]。彼らの主な軍事技術は騎乗弓射である。
フン族は民族大移動を誘発し、西ローマ帝国崩壊の要因となった。フン族はアッティラの元で統一帝国を築いたが、453年に彼が死ぬとその翌年に帝国は瓦解した。同じ名称の後裔または後継者がおおよそ4世紀から6世紀東ヨーロッパ中央アジアの一部に住んでいたと記録されている。フン族の末裔が8世紀前半にカフカスで記録されている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/フン族


「ヴォルガ川東方」には今のカザフスタンがありますね。




正式名称はハンガリー語で Magyarország。公式の英語表記は Hungary
日本語の表記はハンガリー。漢字表記では洪牙利で、と略される。中国語では、ハンガリーのフン族語源説が伝えられて以降、フン族と同族といわれる匈奴から、匈牙利と表記するようになった。
ハンガリー語において、ハンガリー人もしくはハンガリーを指すMagyar は日本では「マジャール」と表記されることが多い。実際の音では伸ばさず「マジャル」となる。
歴史上、ハンガリー王国は多民族国家であり、今日のハンガリー人のみで構成されていたわけではなかった。そのため、その他の民族とハンガリー民族を特に区別する際に「マジャル人」という表現が用いられることがある。
「ハンガリー」は俗説にあるような「フン族」が語源ではなく、「ウンガルン」(Ungarn)、「ウガリア」(Ουγγαρία)に見られるように元々は語頭の h がなかった。語源として一般に認められているのは、7世紀のテュルク系の Onogur という語であり、十本の矢(十部族)を意味する。これは初期のハンガリー人がマジャール7部族とハザール3部族の連合であったことに由来する。
2012年1月1日より新たな憲法「ハンガリー基本法」が施行され国名が変更された[3]
  • 1989年 - 2011年 ハンガリー共和国(Magyar Köztársaság(マジャル ケスタールシャシャーグ))
  • 2012年 - ハンガリー(Magyarország(マジャルオルサーグ))

http://ja.wikipedia.org/wiki/ハンガリー

>ハンガリーの国土はハンガリー平原と言われる広大な平原を中心としており、古来より様々な民族が侵入し、定着してきた。

>後継者の不在によりフン族は分裂。結果的に6世紀にはアヴァールの侵入を許す。

>9世紀にはウラル山脈を起源とするマジャル人が移住してきた。


マジャル人[18](マジャルじん、ハンガリー語Magyarok)とは、国家としてのハンガリーと歴史的に結びついた民族
固有の言語はウラル語族ハンガリー語で、人種はコーカソイドである。極めてごく一部にモンゴロイドの遺伝子を持つ者もいる。民族としてはユダヤ系アシュケナジム)も混じっている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/マジャル人

>マジャル人はウラル山脈の中南部の草原で遊牧を営んでいたが、9世紀にヨーロッパへの移住を開始し、黒海北岸に到達した。さらにロシア南部のヴォルガ川南岸を拠点とした大首長(ジュラ)アールパードは名誉最高首長(ケンデ)クルサーンとともにマジャル人を率いてハンガリー平原に移住し、その後、彼らは生活圏を広げた



>アッティラ以前

>139年、ローマの地理学者プトレマイオスはクーノイ族(ΧοῦνοιまたはΧουνοἰ)がスニ(Suni)の統治下にあるポントス地方のバスタルン族(en)とロクソラン族(en)の間に住んでいると述べている。

>彼は2世紀の初めに列挙したが、これらの民族がフン族か否かは不明である。西ローマ帝国がしばしば「クーノイ」 (Χοῦνοι)または「ウーノイ」(Ουννοι)と書いており、東ローマ帝国では名称のはじめにXの喉頭音を一度も用いていないことを考慮すると「クーノイ」 (Χοῦνοι) と「ウーノイ」(Ουννοι) の類似は偶然である可能性もある[7]。

>5世紀のアルメニアの歴史家モヴセス・ホレナツ(en)は「アルメニア史」でサルマタイ族の近くに住むフン族について紹介し、194年から214年の間の何れかに起きたフン族によるバルフ攻略について物語り、この街をギリシャ人が「ウーノク」(Hunuk)と呼ぶ理由を説明している。

>フン族は4世紀に初めてヨーロッパに現れた。

>翌452年、体勢を立て直したアッティラはイタリア半島に侵入して北イタリア各地を却略するが、教皇レオ1世の説得により引き返す(実際は、フン族の陣営に疫病と飢餓が発生していたと見られている[13][14][15])。

>パンノニアに帰還したアッティラは、再度の東ローマ帝国侵攻を企図するが、翌453年に自身の婚礼の祝宴の席で死亡した(脳出血または脳梗塞という説が有力である)。

>ヨーロッパでは、ローマ教皇の忠告を守らなかったアッティラに神の天罰が下り死亡、残された部下は天罰を恐れ、ローマ教皇の忠告を守り、夕日を背にして生まれ故郷の東方に帰っていった、という非常に有名な伝承が残っている。この事件をキリスト教が布教活動に利用、ヨーロッパでその後1,000年近く続く、王や諸侯よりも強大なキリスト教の権威が生まれるきっかけになったとされる。


>教皇レオ1世の説得により引き返す

>フン族の陣営に疫病と飢餓が発生

>婚礼の祝宴の席で死亡

>脳出血または脳梗塞という

>残された部下は天罰を恐れ、ローマ教皇の忠告を守り、夕日を背にして生まれ故郷の東方に帰っていった

>ヨーロッパでその後1,000年近く続く、王や諸侯よりも強大なキリスト教の権威が生まれる


まあ・・・よく似た事件がありますこと。

まさに、歴史は繰り返す、なんですね。



















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