人生の嵐にもまれ切れた凧のように天空に舞い上がったまま、台風が去った後に枝に引っかかっている残骸みたいな私ですが、皆さんお元気にお過ごしでしょうか?
頭が痛いです。
台風とか、風の強い日は元来大好きな性質なんですが…体も魂もさらって遠くに浚われてしまいそうになる感覚と、新しい何かがやってきて、生活を変えてくれそうな期待と予感にワクワクしてしまうんです。
子供の時に神話や伝説が好きで、学生時代インド神話などにもはまったのですが ・・・
吉祥と仇名されるシヴァ神は、嵐の神なんです。もとはルドラという名前だったらしいです。乾ききった大地をマルト神軍(雨雲の神々)を引き連れてやって来て暴風雨と豪雨で地上を浄め、潤すのです。シヴァ神がやって来た後の大地では植物が芽吹き、樹木は水を吸って生き生きと生い茂り、枝にたわわな実りを実らせます。
だから豊穣の神でもあるシヴァは「吉祥」って言われたんです。
なんかね、ヒンズーの神々って見てるだけで元気になるのよ。
特にインドの大地のプリミティブな力強さを感じてしまって。
旧約聖書では神様の形は象(かたど)ってはいけないことになってます。
この「かたどる」って言う言葉自体偶像を作ることを表しているよね。
でもなんでYHWHの神様は絵や彫刻で表現することを禁じたんだろうね。
神様が目に見えた方が安心できるのに。
お母さんが見えなくなったら、お父さんが見えなくなったら、子供は不安でたまらなくなるだろうに。
お母さんだって子供が見えなくなったら、どんなに心配するだろう?
でもいなくなっただけじゃなくて、見えないだけで、確かに存在していたら。
目に見えてて安心していた時よりももっと、お母さんを慕ったり、子供の事をもっと考えることになるだろうね。
見えないからこそ、気を使う。 大事なものは目に見えるとは限らない。愛とか友情とか信頼とか。
家族が鬼籍に入っても、毎日お線香をたいて、手を合わせる。 何かあれば、報告する。
あの世とこの世は人の心を通じて、つながりあっている。
面白いな、と思ったのは、旧約の登場人物のアブラハムが、偶像商人の父親の家を出てから、YHWHの神に出会うまでのころ。
ある日掃除をしていてなんとか言う男神像を落としてしまい、像の腕を折ってしまった(!)ことがあったが、それに気づいた父親にとがめられたときに「神様同志でけんかして何とか神の方が負けたんです」 と言ってごまかしたらしいのですw
また「Prince of Egypt」の主人公モーセも子供の時に神像の首をもいで(!)すげかえたり神官をからかったり無神論者の悪戯小僧みたいである
よく祟られなかったなーと思って冷汗が流れる思いでしたw
両者とも真の神に出会うまでは罰当たりな無神論者みたいなものだったんだよね。
偶像のある環境で育った人は無新論者になる可能性が高くなるのかな?
信じるに値しない神だからか・・・
続きます。
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